『もう1度行きたい私の旅』

  
中央公論社    森村 桂・ 落合 恵子

=>上住節子の敦煌の旅がこちらに掲載


人は人生の一ページを開く。何かに出会い何かを見つけ何かがおきる。

そして旅の思い出は、日々に倦いたあなたをほんのひとときリフレッシュさせる

バラ色の香水。

日本、外国、北から南まで各界の第一線で活躍する五十六人の女性がそれぞれの旅行体験から特に選びぬいた魅力いっぱいの旅を紹介。

 



敦煌千仏の功徳
                    上住節子                    
 
    
   昭和五十四年春の敦煌行きは、私の心の中にある不思議な変化をもたらした。シルクロード熱もまだ幕開けのころで、「敦煌」の名称さえあまり耳にしなかったが、莫高窟(千仏洞_)の壁画はさまざまな仏教説話でうめられていると知り是が非でも行こうと思いたった。

   それに、鳴沙山とその麓のオアシス月牙泉の美しさはたとえようもないほどだという。シルクロードを通る酪駝の隊商や千仏参りの巡礼たちにとって恰好の休息所だったのであろう。

旅の一行は、仏教学専門の先生方に門外漢の私を加えた十二名だった。北京から蘭州へ千キロ、蘭州からウルムチ行き特別列車で約九百キロ、車中二十六時間の長旅となる。途中駅酒泉で夜光杯をもとめ、一同これからお会いする千仏を想いつつ祝杯をあげる。

四月十四日、ついに柳園に到着、マイクロバスに乗りつぐ。いよいよ敦煙の地を踏むのも間近い。百三十八キロの道のりである。三蔵法師も同じ道を歩まれたかと思うと感無量である。

硬い土と石の交った灰色のシルクロードは、地平線の彼方までまっしぐらな一本線だ。酪駝の影一つない。マルコ・ポーロの「東方見聞録」によると、このあたりの砂漠には人間の命を狙う悪霊が跋扈したという。しばらく走ると、突然白煙がわきおこり、パスの中の人々さえその中に呑みこまれてしまった。

   車はひるまず十五分も蕎進するうち、煙は跡形もなく消え失せた。が、今度は右前方にブルーの色も鮮かに満々と水をたたえた湖水が出現した。蜃気楼であった。コビの砂漠がその全貌を現しはじめたのである。

途中、バスを降りる。夕暮前のゴビ灘(たん)は、見渡すかぎりはてしない黄土色の世界だった。むしろ、茫洋とした春の海にも似て優しく静かである。遠くに竜巻が二つ、砂煙をあげながら転がって行く。

その砂の海のところどころに点在する小さな三角の盛土―それはお墓であった。私は荘然と立ちつくしてその盛土を見た。名前は無く、時の記録も供物もない。おそらく葬ったあとは再び訪れる目印もないのであろう。

   そのとき、ああ、これが人間の行ぎ着く場所なのだと、心の底からうなずくことができた。何十年という一生を一喜一憂して生きた人々も今は砂となり、私もやがてその一粒となって、共に何千年という歴史の中に織り込まれてゆくのだという実感である。

その瞬間、今までにめぐり会えた人たち、私の命、それに所有するものすべてがどんなに大切であっても、それに執着せずに生きてゆけるような気持になったのである。その感覚は今でも続いていて私の心を平和にしてくれている。どんなときも、目をつぶるとあの広々とした砂の海が私を暖く包みこみ、怒りや悲しみはかき消えてしまう。

千仏は遠来の人間に妙不可思議の功徳を授けて下さったのだと思う。よろしく、死ぬ時は死ぬがよろしく候」という柴山全慶老師のお言葉を深く思いおこさずにはられない。

翌朝、空は晴れわたり、莫高窟は千年の歳月に洗われつくした素朴な佇まいで鳴沙山の中腹に連なっていた。初めて訪れる第二七五窟、交脚弥勒菩薩のお顔は明るくすがすがしく私たちを見おろしていた。できればもう一度、千仏の御前に立ってみたい。